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エッセイ
クオリア![]() ![]() この根本的な問いかけを研究する学問をなんと言うのでしょう? 今までに無い新しい問題であり、たくさんの人的物的資源を投入しても研究すべき課題ではないかと思います。この分野の第一人者は茂木健一郎という人です。私の文章も彼の文章の受け売りですが、彼の重要な指摘を引用してみましょう。 『私たちの心の中の様々なクオリアに対応する物質的過程の性質を明らかにすることは、自然科学を従来の客観的視点に立った物理主義の科学から脱皮させるための最大のチャレンジである。様々なクオリアが結びついた表象が感じられる枠組みである私の心という主観性の構造がどのような物質系にどのような条件の下で現われるのかを明らかにすることは、客観的世界と主観的世界の間で分裂した私たちの世界像を整合的なものにする上で必要不可欠なステップである。 クオリアや主観性の起源の解明は、自然科学の問題として重要であるばかりでなく、人文的文化の究極的基礎を提供する。 クオリアは、今後の人類の知的挑戦における本質的課題を象徴する概念である。 日本には資源もないし、安い労働力もない。一方で、この島国の四季の移ろいの中で培われたクオリアに対する感性の伝統だけは確かにある。日本人が受け継いできたクオリアに対する感性を、高付加価値の商品、サービスの開発に生かす「クオリア立国」こそが、これからの日本の一つの生き方なのである。』 彼は物質的なプロセスがどのようにしてクオリアを形成するのかを解明しなければならないと言ってますが、なぜ物質的なプロセスの後にそのようなクオリアが出現するのかを解明する方がもっと重要で困難な課題だと思います。クオリアを原子物理学のように心的元素(たとえば快感、恐怖感)に還元して考えねばならないかも? うっう〜〜〜ん、・・・ややこしっ! 私は若い頃からとても変わった趣味を持っています、当然ながらオタクと呼ばれているかも知れません。田舎の小さな軽便鉄道や地方鉄道、路面電車、汚い工業地帯の工場構内専用鉄道などを訪問してボロボロの車輌の写真を雨漏りに悩まされていたような車庫で撮るのが大好きでした。埃、煤、灰、泥、油、錆、水溜り、破れたトタン屋根、このような汚いものに潜んでいるナニカは美なんでしょうか? この趣味を始めた最初の頃はいろいろな車輌の写真を撮りためているコレクターでしたが、次第に車輌を取り囲んでいる郷愁を誘う光景を絵描きの目で見ていたのだろうと思います。南画や茶道具の美意識の世界に近いものを感じても画家や宗匠に失礼にはならないでしょうか? 中世やルネッサンスのピッチが低くて素朴な古楽の世界に通じるものがあるのではないかと思ったりして・・・。他の喜び(古楽やアンティーク・オルゴールを聴いたとき)と比較しても同じくらいのインパクトがありました。私の心の中における鉄道のクオリアと古楽やアンティーク・オルゴールのクオリアには共通点があるのではないかと思っています。 哀愁を帯びたものを悲しく感じるのはなぜなのか・・・というよりも「哀愁」という概念がどのようにして心の中にできあがっていくのか?・・・が問題になっています。これを言い換えると「美しいものはなぜ美しいのか?」=「自然界にあるなんでもないモノが、どのようにして人の心の中で美しいものに変化していくのか?」という問いになるのではないでしょうか? これがナニカを説明できたら、他の人達も私のクオリア(ここではレイアウトを建設する喜び)を共有できるのではないかと思ったりして・・・・・。 井笠鉄道 籤場車庫![]() 私が鉄(鉄道趣味のこと)の世界で「美?または魅力」を感じたモノの写真を例として掲載しています。でもね〜〜・・・並みの神経の持ち主の一般人の皆様に対してだったら・・・コンナ汚いものに魅力をね〜、どーゆーふーに説明したらいいんだろう??! って言うか、変な趣味を持っていた私がマットーな市民に成長できたかということに疑義が生じるのではないかと。 写真4は100年以上前に作られた蒸気機関車が一休みしているところです。すごい煤煙と石炭灰。 写真5は炭鉱の専用鉄道、不景気になって永いので線路に砕石を補充できなくて、まるで砂原に敷設したように見えます。 写真6は製鉄所の構内専用鉄道で、古い蒸気機関車がワイヤーロープで台車を引っ張っています。 写真7は田舎電車の風情の有る車庫建屋、トタンで出来た壁がペカペカと風であおられていました。 写真8はその車庫の中においてあった貨物電車、トタン屋根が台風で吹き飛ばされたソーデス。 写真9は若松の市電、でも田舎なので貨物専業。 写真10は田舎電車の車庫をプラットホームから眺めたところ。 |