古い車輌の写真

下津井電鉄 1 モハ103+クハ24

RP420 Web#=654 掲載2011/9/27

写真1は起点の茶屋町駅で下津井電鉄のプラットホームで客待ちをしている列車、1964年頃。松山近郊にある母親の実家への途中、宇野線の客車から撮影。

昔から風待港として栄えた港町下津井は、丸亀までのフェリーの起点として金比羅参りの人々などが多く利用していました。ところが1910年に宇野線が開通し宇野と高松を結ぶ鉄道連絡船が営業を始めると利用者が激減しました。
1911年に地元の素封家や対岸にある丸亀の有力者達が中心となって、下津井軽便鉄道会社を設立、全線の建設工事が始まりました。

1913年茶屋町〜味野町(後の児島)間14.5kmが開業。
1914年味野町〜下津井間6.5kmが開業して茶屋町〜下津井間21.0kmが全通。こののちに山陽本線との直結を狙って3フィート6インチゲージ(1067o)に改軌し倉敷までの路線延長も計画されましたが、資金不足で実現には至りませんでした。
1922年社名を下津井鉄道に変更。
1928年からガソリンカーによるフリークエントサービスを始めました。
1949年に石油石炭等の燃料供給事情悪化対策として全線電化を実施し下津井電鉄に社名を変更。
1972年に茶屋町〜児島間14.5kmが廃止されました、これは茶屋町で国鉄宇野線への乗換なしに倉敷まで行ける自社バスに乗客が移行したためです。この際に車両は車齢の若い6輌の電車を残して残りは全て廃車、車庫のある下津井駅以外はすべて無人化という徹底した合理化が行われました。私の写真はこの時期のものです。
1983年に落書き電車の登場。
1988年にはメルヘン調のかわいいデザインの電車メリーベル号の就役と経営努力が重ねられました。しかし下津井周辺の道路が瀬戸大橋建設のために整備され、路線バスへ乗客がが流れてしまい、1990年に全線廃止となりました。

モハ103+クハ24

写真2はモハ103+クハ24、1975/5/25下津井電鉄下津井駅。

モハ103+クハ24は私が下津井電鉄を訪問した時の最新鋭電車でした。瀬戸内海の初夏の明るい日差しの中、のんびりと客待ちをしていました。広いプラットホーム跡?から撮影。電車の左後方には丸亀行きフェリー乗り場までの簡単な屋根を備えた通路がありました。

モハ103

写真3はモハ103、1975/5/25下津井電鉄下津井駅。

1961年にナニワ工機で製造された軽便電車の最新鋭です。赤と白のツートンカラー、貫通路付き2輌固定編成で流線形、準張殻構造の軽量車体です。前面2枚窓にHゴム支持とアルミサッシを採用した窓、阪神電車のジェットカーの影響でしょうか、ヘッドライトを左右に2灯備えていました。

全長13.2m、自重15.8t、出力22kw X 4、定員90名とボギーの路面電車と同じ程度の大きさでした。

クハ24

写真4はクハ24、1975/5/25下津井電鉄下津井駅。

1974年にこの編成はワンマン化改造、乗務員扉の撤去と客用扉の移設が行われました。
1985年にアイボリーの車体にスカーレットの線という塗装に変更。
1988年に富士フィルムの広告電車となり緑に白線という塗装になり、廃線までこの色を纏っていました。現在は下津井駅跡で原型の塗装に戻されて保存されています。