古い車輌の写真

能勢電鉄 20 川西国鉄前駅まで

RP626 Web#=955 掲載2015/6/23

写真1は能勢電鉄川西能勢口駅、1978/1/16。

川西能勢口〜川西国鉄前間0.7kmには急カーブが残されていたので、車体が短く台車のホイールベースも短い50形51と60形61が専用車として運用されていました。いつも51が川西能勢口駅ホームの川西国鉄前寄りの端っこに留置されていました。

写真2〜6は能勢電鉄川西能勢口〜川西国鉄前間、1965/4/1。

トロリー・ポール時代には30形が良くこの閑散区間に使われていました。運行ダイヤは朝と夕方の数本だけ、夕方を狙って撮影に出かけました。

トロリー・ポールと架線が擦れる独特の音をさせながら、裏通りの横をゆっくりと通過していく31は、のんびりとした田舎電車の魅力を振りまいていました。

この区間は1917年に開業しましたが、おもな目的は沿線で産出されていた米穀、薪炭、多田銀山の鉱石、平野の帝国鉱泉株式会社で作られていた平野水( サイダー )などの貨物を国鉄福知山線池田駅まで運搬するためでした。当時は貨物収入が大きく、中心は平野駅沿線の鉱泉を使った国内初の炭酸飲料「三ツ矢サイダー」で、そのブランドは源満仲が放った矢にちなんで名付けられたそうです。

1921年三ツ矢サイダーを製造していた帝国鉱泉株式会社は日本麦酒鉱泉株式会社( ユニオンビール )に合併され、さらに1933年に大日本麦酒株式会社(アサヒビール・サッポロビール・ヱビスビールを製造販売 )に合併されました。
1949年大日本麦酒株式会社は朝日麦酒株式会社(現在のアサヒグループホールディングス株式会社)と日本麦酒株式会社に分割。三ツ矢サイダーは朝日麦酒が継承されました。
1952年に人工甘味料から砂糖に切り替えて「全糖三ツ矢シャンペンサイダー」が発売され、当時小学生だったサイト・オーナーも大変お世話になりました。現在も当時とあまり変わらない味で盛業中ですが、平野工場は閉鎖となり、生産は明石工場に集約されました。

阪急宝塚線の盛り土部分を手前方向に走ってくる31、写真の両側に柱のように見えるのはコンクリート製の土留( アバット )です。

現在は阪急電鉄川西能勢口駅とJR川西池田駅の間は立派な高架のペデストリアンデッキで結ばれております。1980年にJR川西池田駅が東に移転したので、その距離は400mぐらいとなりましたが、当初は700m離れていました。