古い車輌の写真

名鉄岐阜市内線 1 1,10

RP103 Web#=186 掲載2008/7/21修正1 2009/5/17

名古屋鉄道岐阜市内線は1911年に美濃電気軌道によって開業されました。1914年に美濃電気軌道は郊外路線である笠松線を開業、1920年には後の高富線である長良軽便鉄道を合併、岐北軽便鉄道(後の揖斐線)と1921年に合併して拡大していきました。
(初代)名古屋鉄道は1922年に主要事業であった市内線を名古屋市電へ譲渡して、郊外路線だけが残されていました。そこで郊外路線を延長して新しい事業の拡大を狙い岐阜までの路線を敷設しようと計画しました。その過程で、新岐阜駅から笠松までの路線を営業していた美濃電気軌道を合併し社名を名岐鉄道と変えました。1935年に名岐鉄道は木曽川橋梁を架けて名古屋―岐阜間の直通公害路線を実現しました。そのすぐ後で名岐鉄道と愛知電気鉄道の合併が行われ現在の名古屋鉄道が生まれました。
名古屋鉄道岐阜市内線は日本版インターバンの原点とも言うべき路線で、アメリカのインターバンと同様に併用軌道区間と専用軌道区間を持ち相互に乗り入れを行っていました。これは営業基盤が地方都市であったために、大都市近郊のような沿線人口の急増が無かったのでインターバン的運用が可能だったためでしょう。

徹明町の交差点で3

寒い霙が降りそうな1966/12/27に徹明町の交差点で撮影したモ1形3です。まだまだモータリゼーション前夜なのでしょうか、道路には車の姿がちらほらです。電車の右側はトヨペット・クラウンの初代ステーションワゴンでしょうか。

モ1形3

美濃電気軌道が1911年の開業時に用意した、D1形(Dとはイギリスのデッカー社製電装品)が前身で、オープンデッキ(出入台の扉がない)の木造四輪単車でした。番号は1〜8、10〜12、34の合計12両。後に名古屋鉄道モ1形に改称。2軸台車はもっとも多く普及したブリル21-E、木造車体は天野工場製、ポール集電でした。1939年に2〜4、10、12、34が廃車され、戦災を受けて50形として復旧した3を除くと戦後に生き残ったのは1・5・7・8の4両で、1949年にモ1形1〜4に改番されています。1966/12/27新岐阜駅前停留場にて撮影。

戦後にデッキの扉が取り付けられ、集電装置がビューゲルに取替、車体の外側には鉄板を貼り付ける簡易鋼体化工事(所謂ニセスチール化)が行われました。その中でモ3は1967年まで残って活躍を続けました。

ニセスチール化されているとはいえ、木造車時代の面影を色濃く残している四輪単車はモデルマニアにとって魅力の在る存在でしょう。小さな路面モジュールにも急カーブの専用軌道モジュールにもよく似合います。

14

美濃電気軌道によって1914年に増備された車両で、当初の番号は27、31〜33、35〜38、40、41、43、44の12両です。名古屋電車製作所の製造で、当初から出入口扉が設置され、集電装置はポールでした。太平洋戦争により一部が戦災を受け、戦後に生き残ったのは、27、31〜33、36〜38、40、41、43の10両でした。1949年改番されてモ10形10〜19となりました。写真4のモ14は元40でした。

戦後、モ1形と同様集電装置がビューゲルに取替、車体の外側には鉄板を貼り付ける簡易鋼体化工事(所謂ニセスチール化)が行われました。10両中7両(10、11、12、14、16、17、19)が1967年まで運用された。写真5はモ10形と思われますが、番号が写真からは読み取れません。

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