古い車輌の写真

高松琴平電鉄 Vol. 6 64,73,74

60形と70形

RP115 Web#=213 掲載2008/9/1

琴電の60形(両運転台のクモハ)7輌と初代70形(片運転台のクハ)4輌(70形の内1輌は後に60形に改造)の合計10輌は、太平洋戦争の直後にあちこちの鉄道から買い集めた雑多な木造の中古車でした。戦後の混乱期に酷使されたために木造の車体は損傷が酷く、各車まちまちのやり方で修繕が行われました。その修繕は前面のみを簡易鋼体化や、前面・側面ともに簡易鋼体化(木造の車体に鋼板を貼り付けただけの所謂ニセスチール化)で済ませた車輌、クハのクモハ化、木造車体の寸法のまま窓が小さく古めかしいスタイルで鋼体化したもの、台枠を修理して全く新しいデザインの車体(貫通型と非貫通型)を新造し載せ換えたものが混在していました。中には損傷が酷くて木造車のまま廃車となったものもありました。

64

64の前身は京浜電気鉄道が1913年に天野工場で製造した36号形デ39です。当初は木造両運転台で客用扉の無いオープンデッキの路面電車スタイルでした。後で鉄道線用としてステップが取り除かれ、車体中央と両端に扉が取り付けられました。1941年に京浜電気鉄道と東京横浜電鉄が合併し東京急行電鉄となった時にデ36形はデハ5100形デハ5107に改称されました。
戦争直後に運輸省の63形の割り当てを受けた東急は、押し出された旧型車を地方私鉄に売却しなければなりませんでした。東急の5100形と3140形が選ばれ、うち7両が高松琴平電鉄に1948年に入線しました。その内4両が電動車になり長尾線・志度線用60形61〜64として就役しました。
木造車体の損傷が酷かったので前面・側面ともに簡易鋼体化を受けています。但し木造車体に鋼板を張りつけただけの簡易な工法で所謂「ニセスチールカー」でした。1966年の志度線の架線電圧昇圧時に簡易鋼体化車は廃車されました。

73

この電車は64と同じ様な経歴で、当初は京浜電気鉄道デ30、東急になってからクハ5223を経てクハ3143となり1948年に琴電にやってきました。このときに譲渡を受けた7輌の内1輌だけが琴平線用の15000形1510となりましたが、1955年に長尾線、志度線に転属された時に70形の最後73に改番されました。1960年代に入ってから前面と側面の簡易鋼体化(所謂「ニセスチールカー」)を受けています。1966年の志度線の架線電圧昇圧時に簡易鋼体化車は廃車となりました。

74

74は神戸姫路電気鉄道(現在の山陽電気鉄道の姫路〜明石間)が開業時に備えて、1923年川崎造船で新造した高速電車規格の1形(全部で15輌)で、木造両運転台の電動客車でした。神戸姫路電気鉄道が宇治川電気と合併後、兵庫電気軌道(兵庫〜明石間、低速の路面電車規格)と直通させるために新造した51形に機器を流用して廃車となりました。その内の6輌分の車体は戦時中の車輌不足を補うために1942年に車体を中央で切断して幅を詰めたて制御車の76形となりました。琴電の74となった電車は山陽電鉄の76形76から114を経て1000形1003に改番され、電動車の107と固定編成を組んでいました。琴電では1003が74となって活躍しましたが、1968年に廃車となりました。

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