古い車輌の写真

阪急今津線 2

仁川〜甲東園間の踏み切り

RP125 Web#=223 掲載2008/9/12

写真1は1963年ごろ、阪急今津線の仁川駅と甲東園駅とのほぼ中間に有った踏み切りで撮影したものです。この頃の今津線は宝塚側から500形 + 300形付随車 + 500形 + 320形か380形1輌の小型車4両連結でした。382が切り通しから顔を出した瞬間です。普段の阪急電車は鋳鉄製のブレーキシュー由来の赤錆が車体にくっついて、ウエザリングがよく効いていました・・・悪く言えば汚れて赤錆だらけ。全検上がりの電車は阪急マルーンに輝いていて、パンタグラフは銀色、足回りなどは艶のある漆黒でした。走行音も普段の電車とは違う甲高い音を立てていました。

写真2は写真1の踏切から電車の進行方向の甲東園方面を向いたところです。電車は宝塚行きで先頭は505、その次は古い300形でお椀形ベンチレーターと床下にはキングポストが残されていました。今津線で運用されていた時代の編成は複雑な台車のたらい回しの結果500形はブリル27MCB、300形はブリル27E1、320や380は台車はボールドウィンBW-78-25AAや、そのデッドコピー台車となっていました。

写真2と大体同じ地点に立って2008/9/9に撮影した写真です。遠くに見える高層マンションは甲東園の駅前に建設されたものです。道路の舗装が薄いひび割れだらけの簡易舗装から、きちんとした厚いアスファルト舗装になっています。当時は砂利をばら撒いただけの簡易舗装?もあちこちで見られました。晴れた日には日本中が砂埃で白っぽくなっていました。

画面左側の裸電球が取り付けられている街灯は、今では立派な水銀灯となって画面右側に移設されています。

仁川駅近くの築堤

写真4は踏み切りよりもう少し甲東園よりから西宮北口行きの電車を取りました。この頃はまだ今津から宝塚まで1本の路線で、宝塚発の電車は今津行き(通称イマカン、方向板が白地に黒文字)と西宮北口行き(通称キタカン、方向板が青地に白文字)の2種類が交互に運転されていました。

写真5は仁川寄りの築堤を登って来る517で西宮北口発宝塚行き(通称キタカン)です。築堤はそのままの形で残っていますが、鋼材を組み合わせた架線柱は全てコンクリートポールに取り替えられています。

写真6は撮影メモがなくなっていて日付がわかりませんが、望遠レンズを買って最初に写した写真のようです。どうも長いレンズには慣れていなかったのかピントも怪しく、右側に余計なもの(トリミングしました)も写り込んでいました。

この頃になると今津線でも610形の運用が始まり、500形の全てが320形か380形を今津側に1輌増結して5両編成となっていました。

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