古い車輌の写真

伊予鉄道 8 モハ130形、モハ200形

モハ130形 133

RP187 Web#=322 掲載2009/6/23

写真1はモハ130形133、1981年夏、伊予鉄道高浜線古町車庫にて。

当初この電車は帝都電鉄のモハ104として1933年に川崎車輌で作られました。後に京王帝都電鉄のデハ1402と改番され1972年に伊予鉄に譲渡されました。伊予鉄道では小田急電鉄の廃車発生台車を使ってカルダンドライブに改造されましたが、1988年に700系の増備に伴い廃車となりました。

モハ130形 134

写真1はモハ130形134、1981年夏、伊予鉄道高浜線古町車庫にて。

写真2はモハ130形134も133と同じように、帝都電鉄のモハ208として1933年に川崎車輌で作られました。後に京王帝都電鉄のデハ1403と改番され1972年に伊予鉄に譲渡されました。足回りも133と同じ改造が行われましたが、1988年に700系の増備に伴い廃車となりました。

モハ200形 202

写真3はモハ200形202、1967/3/27伊予鉄道高浜線古町車庫にて。

伊予鉄道高浜線が1931年に電化されたときにモハ100形と同時に日本車輌でモハニ200形201〜206の6両が新造されました。前面三枚窓、非貫通形の両運転台2扉+荷物扉で全長はモハ100系と同じ16.2mです。後に荷物室は客室となりモハ200型と称されるようになりましたが、大きな荷物扉はそのまま残されました。この202は1977年に火災で廃車となり、残された下回りと伊豆箱根鉄道から譲渡されたクハ27の車体を組み合わせて写真6のモハ212となりました。

モハ200形 206

写真3はモハ200形206、1981年夏、伊予鉄道高浜線古町駅にて。

荷物室を持つ小型電車は当時のローカル私鉄によく見られたもので、いかにも地方色豊かな好ましいデザインでした。私がこの電車に乗ったときは手荷物扱いも残っていましたが、荷物室は乗客に開放されていました。荷物室には座席が設置されていないだけで、窓ガラスの保護棒は無く、床の荷摺木もありませんでした。

モハ210形 212

写真5はモハ210形212、伊予鉄道高浜線古町車庫にて。

高浜線が1931年に電化されたときに日本車輌でモハニ200形201〜206の6両が新造されました。そのうちのモハニ200形202は1977年の火災で廃車となりましたが、残された機器や台車と伊豆箱根鉄道から譲り受けたクハ27の車体を組み合わせてモハ210形212として1977年に竣工しました。モハニ202の履歴は簡単なのですが、モハ212の車体の前身クハ27はとても複雑な経歴を持っています。

写真6は同僚の高松琴平電鉄850形850、、1973/5/1瓦町駅にて。

当初多摩川砂利鉄道と称していた南武鉄道は1927年に開業しましたが、軍事上重要な路線ということで1944年戦時買収私鉄指定に国有化され鉄道省南武線となりました。1942年に南武鉄道は汽車製造会社でクハ250型クハ251〜255の5輌を製造しました。1945年にクハ255が空襲で失われ1946年に廃車となりました。南武線に大型の省線電車が入るようになってから、残る4輌のクハ250形は宇部線に転属となり所謂社型国電の形式クハ6010形クハ6010〜6013を貰いました。1957年に1輌、1963年に3輌が廃車となりました。1963年の廃車3両の内1両は高松琴平電気鉄道で850となり、1998年まで活躍しました。残りの2両は伊豆箱根鉄道に譲渡され、1両は1965年にクハ27となり、1両は1967年からモハ36となり大雄山線で使用されました。モハ36は1974年に廃車となりましたが、クハ27は1977年に伊予鉄道に譲渡され、モハニ202の焼け残った部品を組み合わせてモハ212となり、1985年まで使用されました。

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