古い車輌の写真

山陽電鉄 2 200

205

RP344 Web#=534 掲載2010/11/20

写真1は200形205、1969/9/8山陽電鉄東二見車庫。

200形は1936年から1945年の間に7次に渡って37輌が作られました。201〜206(就役時の番号)の第1次車と207〜212までの第2次車は、兵庫電気軌道の車両の主要な機器を流用して作られました。また201〜212は1949年に200〜211に改番(但し順不同)されました。写真1の205は1910年に作られた兵庫電気軌道の22形27の機器を流用して川崎車輌で200形206として竣工しました。1949年の改番で205になり、1963年に廃車、以降は東二見の工場で入換用として使われていました。現在は東二見工場でトロリーポールをつけた状態で保存されています。

就役当初は路面からの乗降用フォールディング・ステップが付いていて、短い車体で前後が流線形両運転台と、路面電車に近い設計でした。車体は半鋼製の前面を傾斜させた流線形で、最大長は15.4m、2扉、自重21.0t、出力196kW、定員100名でした。台車はブリルの改造台車を履いていましたが、後にボールドウィンのイコライザー式台車BW-1に取り替えられました。

229

写真2は200形229、1969/9/8山陽電鉄東二見車庫。

200形は第3次車から完全な新製車になりましたが、すでに戦争の影響を受けて電装されずに納車されました。写真2の229は田中車輌(現近畿車輌)で1945年に6輌作られた第6次車127〜132の内の128で、クハとして就役していました。車体は半鋼製流線形でしたが前面の傾斜は少なくなり、最大長は15.4m、3扉、自重21.9t、出力196kW、定員100名でした。台車はボールドウィンのイコライザー式台車BW-1を履いていました。1949年に電装品を補ってモハとなり、改番で229になりました。廃車は1969年。

230

写真3は200形230、1969/9/8山陽電鉄東二見車庫。

上記第6次車の内129と130、132は電装待ちで就役させることができないまま西新町工場に留置されていたところ、米軍艦載機による空襲を受けて全焼し就役前に廃棄されました。写真3の230は元131で空襲を受けて全焼しましたが復旧され、1949年に電装品を補ってモハとなり、改番で230になりました。廃車は1969年。

231

写真4は200形231、1969/9/8山陽電鉄東二見車庫。

写真4の231は終戦後の1945年に兵庫電気軌道の8、10、12の改造名義で製造された第7次車3輌の内の1輌で、就役当初は座席数縮小、座布団と天井化粧板なし、室内灯は裸電球と粗悪な仕様でした。車体は平妻となってしまい、最大長は15.4m、3扉、自重21.9t、出力196kW、定員100名でした。台車はボールドウィンのイコライザー式台車BW-1を履いていましたが後にBW-3やBW-5に換装されたものがありました。

写真4の231は兵庫電軌8を川崎車輌で改造名義で製造し133として就役、1949年にクハからモハに整備され改番で231になりました。廃車は1969年。

232

写真5は200形232、1970/2/14山陽電鉄西代車庫。

写真5の232は兵庫電軌10を川崎車輌で改造名義で製造し134として就役、1949年にクハからモハに整備され改番で231になりました。1970年に車体を取り払って長物車20に改造されました。

233

写真6は200形233、1969/9/8山陽電鉄西代車庫。

写真6の233は兵庫電軌12を川崎車輌で改造名義で製造し135として就役、1949年にクハからモハに整備され改番で233になりました。1970年に長物車21に改造されました。

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