古い車輌の写真

京阪電鉄 8 大津線 50、60、80

55

RP363 Web#=583 掲載2011/4/22

写真1は50形55、1968/12/25京阪電鉄四宮車庫。

50形は1932年と1933年に51〜58の8輌が大阪鉄工所(現日立造船)、田中車輌(現近畿車輌)と日本車輌で作られました。

写真の55は1932年に54として田中車輌で作られました。1949年に四宮車庫で僚車全てとともに火災に遭遇しました。52と54は損害が軽かったのでナニワ工機で車体を修理し54は55に、52は56に改番されました。1968年に80形に置き換えられて廃車となりました。

真四角の素っ気無いデザインで同じデザインの70形とともに、社会科電車というニックネームが付けられていたそうです。語源や謂れをご存知の方はお知らせください。

81

写真2は80形81、1977/4/18京阪電鉄錦織車庫。

80形は1961年から1970年にかけて81〜96の16輌が近畿車輛で作られました。併用軌道区間があったため吊掛式でしたが、急勾配区間の登坂力と強力なブレーキ、急行運用も可能な高速性能と美しいデザインを併せ持つ優れた路面電車でした。

写真の82はスライダー式トロリーポールで就役しましたが、1970年にパンタグラフ化、1972年までに片運転台化され2輌編成となり貫通路が設けられました。1989年に冷房化のために屋根の嵩上げが行われパンタグラフの櫓がなくなりました。同時に貫通面の運転台跡の整備が行われました。1997年京津線の京津三条〜御陵間廃止と同時に廃車となりました。

63

写真3〜6は60形63、1977/4/18京阪電鉄錦織車庫。

60形は大阪(天満橋)から京都を経て大津までの直通運転を狙って1934年に日本車輌本店で61〜63の3輌(6車体)が作られました。日本で初めて連接構造を採用し、2車体固定編成3台車でした。

車体は気動車用車体の構造を取り入れた軽量構造半鋼製車体で作られていました。車体前面は当時欧米で流行し始めた流線型を取り入れた日本車輌製造本店によるデザインで、これは1935年竣工の国鉄52系電車寄りも早期の例でした。この前面デザインは江若鉄道に導入されたC9形をはじめとして、日本車輌が地方鉄道に供給した気動車に多用されました。路面区間用の低床式扉と本線プラットホームに適合した高床式扉を各2組持っていました。

京阪本線は1932年にパンタグラフ化されていましたが、軌道線の京津線と石山坂本線は複線式架線でした。そのため就役当初はパンタグラフとダブルポールを備えていました。

通常の幌では逢坂山付近の急カーブを通過できなかったので、中間台車と回転軸を共通にする円筒状の貫通路を装備しており、他の連接車には見られないユニークな設計でした。

63は1970年に廃車となりました。61〜63の台車9台の内8台は本線の700系に流用されました。残った1台のD-12型台車と63の車体は写真のように長らく錦織車庫に放置されていました。700系の車体を流用して、機器新造で3代目1000系が作られるときに発生した台車や機器を使用して復元され1980年からひらかたパークで保存展示されました。1996年に入念な復元工事が行われ、現在は寝屋川車庫で保存されています。

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