古い車輌の写真

上田交通 別所線 3 モハ3121、4257、5371

モハ3121

RP397 Web#=617 掲載2011/6/8

写真1はモハ3121形モハ3121、1976/6/4上田交通別所線上田原車庫。

1936年に開通した善光寺白馬電鉄が開業に備えて当時佐久鉄道や飯山鉄道などが導入していたのと同系のガソリンカー ゼ100形ゼ100とゼ101の2輌を日本車両製造東京支店で新造しました。
1944年に戦争のため不要不急路線として休止が命じられ、レールは撤去、たった2台しか在籍していなかったガソリンカーは下記のように譲渡されて行きました。
ゼ101は滋賀県の江若鉄道へ譲渡されC11形初代キハ14を経て野上電鉄へ譲渡され電装の上デハ20形デハ22となりました。
ゼ100はガソリンカーを所有していた上田丸子電鉄丸子線へ譲渡され、キハ300形キハ301となりましたが、燃料不足からエンジンを下ろしてサハ代用となっていました。
1948年に目黒蒲田電鉄から譲渡されたデハ1形電車の台車を使って電車化モハ310形311と改番され、電車になってからも丸子線で使用されていました。
1950年にモハ3120形3121に改番されました。
1955年に西丸子線に残存していた老朽2軸単車を淘汰するため同線に転属しました。
1961年の水害による西丸子線休止で、別所線へ再度転属となりました。
1969年に廃車となり、写真のように達磨さんになっては上田原の車庫で倉庫となっていましたが1990年代になってから解体されたようです。
善光寺白馬電鉄の鉄道線が正式に廃止となったのは1969年ですが、会社はそのままの社名で今も運輸倉庫業として盛業中です。

モハ4257

写真2はモハ4250形モハ4257、1976/6/4上田交通別所線上田原車庫。

1929年富士山麓電気鉄道(現在の富士急行)は大月線開業に合わせてモ1形1〜5の5輌を新造しました。開業後に形式記号がモ1形からモハ1形に変更されました。
1952〜3年頃に改番がありモハ500形501〜505となりました。また15mの小型の車体が17mのやや大型のものに載替えられました。
1955年に発生したモハ501の旧車体は上田丸子電鉄に譲渡され、国鉄長野工場にあった中古台車と組み合わせてクハ250形クハ251として真田傍陽線で就役しました。
1963年にクハ251を750V・1500Vの複電圧車として電装化し、モハ4257として就役しました。
1972年の真田傍陽線廃止に伴いモハ4257は別所線へ転属となりました。
1983年に廃車、富士急行60周年記念事業の一環として同社へ里帰りし、製造当初の姿に復元されて河口湖駅で保存されています。

モハ5371

写真3はモハ5370形モハ5371、1976/6/4上田交通別所線上田原車庫。

1926年に信濃鉄道(現在のJR大糸線)が日本車両製造でデハ1形5を製造しました。
1937年に信濃鉄道が国有化された時にデハ5も国鉄に編入されモハ20004に改番されました。
1953年の改番でモハ1102となりました。
1954年に電装解除されて制御車クハ5100となりましたが、同年に上田丸子電鉄に譲渡されました。そのときに再度電装されモハ5260形5262(丸子線に初代モハ5261が在籍していたため)として竣工しました。
1958年に制御器に改造を受けてモハ5360形5362(真田傍陽線に後のモハ4261となるモハ5361が在籍していたため)に改番されました。
1960年にモハ5362の足回りと小田急1600形の車体を組み合わせてモハ5371が作られました。改造工事を行ったのは東横車両で、同時に両運転台化と客用扉の異説が行われています。
1986年1500V昇圧時に廃車解体されました。

このページの電車は何度も移籍と大改造、改番を次々に受けていて、その経歴はとても興味深いものがあります。モハ3121とモハ5371は既に鬼籍に入っております。私があの世に行ったら彼らの身の上話を聞いてみたいものです。

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