古い車輌の写真

長野電鉄 2 OS0、1100

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RP466 Web#=700 掲載2012/2/21

写真1はOS0形1、1976/6/5長野電鉄長野駅。

1966年に長野電鉄は単線のために列車本数が取れないために逼迫していた朝の通勤通学輸送用として、4扉20m級車体2輌編成のOS0系を2本4輌、日本車輛で製造しました。特筆すべきは日本で初めて前面全てがFRPで作られていました。

51

写真2はOS50形51、1976/6/5長野電鉄長野駅。

特異なOSという形式称号は通勤通学輸送を意識して製造された経緯からOfficemen & Students Carの頭文字に由来し、OSカーと呼ばれていました。
利用客の減少に伴い後継車のOS10系は3扉となりました。
1997年にOS0系は3500系や3600系に置き換えられて廃車隣解体されました。これはワンマン運転対応改造が難しいことと、勾配区間用の発電ブレーキを装備していないためでした。1967年度鉄道友の会ローレル賞を受賞した意欲作も、30年余りで後継車を残すことなく廃車となったのは残念です。

1101

写真3はモハ1100形1101、1976/6/5長野電鉄長野駅。

1925〜1927年に信濃鉄道(現在の東日本旅客鉄道大糸線)が電化に際して日本車輛製造の本店で木造車デハ1形デハ1〜3、5、6の5輌を製造しました。そのうち2代目デハ1と3は子会社の池田鉄道に在籍していたデハ2と1で、池田鉄道が業績不振のために電気運転を取りやめた時に信濃鉄道に譲渡されました。

信濃鉄道のデハ6が長野電鉄モハ1101の前身です。
1937年信濃鉄道が国有化されモハ20形モハ20005。
1953年車両形式称号規程改正でモハ1100形モハ1103と改番。
1955年長野電鉄へ譲渡されモハ1形 1(2代)。
1961年に長野電鉄は同じような経歴を持つ木造車3台をまとめて日本車輌製造で鋼体化改造し、3輌編成の1100系(モハ1101+モハ1102+クハ1151)としました。この時点で木造車の部品は主台枠ぐらいしか残っていないものと思われます。中間に挟まったモハ1102は両貫通となっていました。モハ1形 1(2代)はモハ1100形1101となりました。
1979年に豊橋鉄道へ譲渡されモ1811(初代)。

信濃鉄道のデハ3が長野電鉄モハ1102の前身です。
1937年信濃鉄道が国有化されモハ20形モハ20004。
1953年車両形式称号規程改正でモハ1100形モハ1102と改番。
1954年モハ1102が電装解除されクハ5110形クハ5110に改番。
1955年長野電鉄へ譲渡されクハ50形クハ51(2代)。
1961年鋼体化改造を受けてクハ1150形クハ1151。
1979年に 豊橋鉄道へ譲渡されク2811(初代)。

1925年に信濃鉄道(現大糸線)は電化に際して日本車輛製造の本店で木造郵便荷物合造車デハユニ1形デハユニ1と2の2輌を新造しました。
信濃鉄道のデハユニ1が長野電鉄モハ1102の前身です。
1937年信濃鉄道が国有化されモハユニ21形モハユニ21001。
1953年車両形式称号規程改正でモハユニ21001がモハユニ3100形モハユニ3100と改番。
1954年電装解除クハユニ7100形クハユニ7100に改番。
1955年長野電鉄へ譲渡されクハニ60形クハニ61(2代)。
1961年鋼体化改造を受けてモハ1100形モハ1102。
1979年に伊予鉄道へ譲渡されモハ600形603。

1979年に長野駅付近の地下化に伴い廃車となり、両端のモハ1101とクハ1151は豊橋鉄道に、中間のモハ1102は伊予鉄に譲渡されました。

伊予鉄道603

写真4はモハ600形603、1981夏 伊予鉄道松山市駅にて。

長野電鉄モハ1100系の中間車モハ1102が伊予鉄道に譲渡されモハ600形603となりました。伊予鉄道ではモハ602の中間車への改造で発生した部品を流用して、前面がモハ601に準じた構造の非貫通3枚窓に改造されモハ601+モハ602+モハ603の固定編成となりました。
1995年に廃車解体となりました。

豊橋鉄道渥美線モ1811(初代)+ク2811

写真5は豊橋鉄道渥美線へ譲渡されたモ1811(初代)+ク2811となった長野電鉄モハ1101+クハ1151、1984/1/21豊橋鉄道渥美線高師駅にて。

豊橋鉄道渥美線で使われていた角型のケースに入ったシールドビームが取り付けられ、塗装も豊橋鉄道色に変更されて印象が変化しました。
1997年の渥美線1500V昇圧により廃車されました。

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