古い車輌の写真

近鉄大阪線 8 廃車体

5153

RP504 Web#=749 掲載2012/7/14

写真1〜3はモ5150形5153の廃車体、1970/1/24近鉄大阪線名張検車区。

1923年吉野鉄道が川崎造船所兵庫工場で木造電動車デハ1形1〜6の6輌を製造しました。全長16.7m、自重31.3t、出力41kwX4、定員名100名と当時としてはかなり大型でした。

1929年大阪電気軌道が吉野鉄道を合併、吉野線となる。
1941年大阪電気軌道が参宮急行電鉄を合併して関西急行鉄道になり、デハ1形はモ5151形5151〜5156と改番されました。
1943年モ5153とモ5156が吉野線から伊賀線に転属してきました。写真1〜3の廃車体はデハ3→モ5153のものです。

1944年に5153は豪雨による道床崩壊で脱線転覆事故を起こし、しばらく休車となりました。モーターを付けないままで復旧されました。
1957年には正式にモーターをあきらめて、ク5153形に形式を変更しました。
1960年廃車。解体を免れ名張検車区構内で写真のように、灰色に塗装されて倉庫として使用されていましたが後に解体されました。

5171

写真4〜6はモニ5170形5171の廃車体、1970/1/25近鉄大阪線名張検車区。

1923年吉野鉄道が川崎造船所兵庫工場で木造電動車デハニ100形101と102の2輌を製造しました。
1929年大阪電気軌道が吉野鉄道を合併、吉野線となる。
1941年大阪電気軌道が参宮急行電鉄を合併して関西急行鉄道になり、デハニ100形はモニ5161形5161、5162と改番されました。

1955年5162が伊賀線に転属。
1956年モニ5170形5171に改番。
1961年廃車。車体はしばらく倉庫として使用されましたが、後に解体されています。

このように1970年代までは大手の私鉄でも古い電車の車体を倉庫や更衣室などに再利用していました。東寺検車区を訪問するときは、必ず裏手の方まで探索し本線で見られなくなった珍しいハコを発見して喜んだものです。

廃車体をレイアウトに置くときは、後付けの庇、休憩室の看板、数枚外れた羽目板、受電用の電柱や引込線、防火用水用ドラム缶、物干竿、洗濯物、スポーツ用品入れ、花壇、裸電球の街灯などディテール工作が楽しめます。

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