古い車輌の写真

江ノ島鎌倉観光 1

たんころ 108

RP031 Web#=87 掲載2008/3/9

1963年4月上旬に江ノ島鎌倉観光株式会社という変わった名前の電鉄を訪問する機会に恵まれました。ここは 1902年9月に江之島電氣鉄道として開通してから、社名についてもいろいろと変遷がありました。1949年に江ノ島鎌倉観光株式会社となり、1981年9月に江ノ島電鉄株式会社に社名を変更し現在に到っています。

開通した時はトロリーポールの代わりに日本で初めてドイツの技術によりビューゲルを採用するという進取の気質に富んだ会社です。1931年に100形106〜110号車が新潟鐵工所で製造されました。100形は合計10輌新造され主力車として永く活躍してきました。写真1は105号、江ノ島駅の留置線で撮影。

写真2は108号、極楽寺検車区で撮影。100形は直接制御でトロリーポールを使っていたために連結運転が出来ませんでした。常に単行(1輌編成)で運用されていたため「タンコロ」というニックネームを頂戴したようです。108号は単行の電車として最後まで使われていましたが、ATSを装備するスペースがなかったので1980年に廃車となりました。現在は極楽寺検車区の片隅に在る専用の保管庫で大切に動態保存されています。検車区公開の日には目玉商品として検車区内で動かされています。

ま、そういうお堅い経歴や技術の話はさておき、この108号タンコロ君にまつわる心温まるお話を紹介しましょう。アメリカにメイク・ア・ウィッシュ(Make-A-Wish Foundation)というボランティアの組織があります、(詳細は脚注参照)。江ノ島電鉄とメイク・ア・ウィッシュ財団日本支部の協力で心臓に重い病気を抱えた16歳の少年の願い「大人になったら江ノ電の運転手になりたい」という夢をかなえてあげたことです。

江ノ島電鉄は彼を極楽寺検車区へ招待し、検車区内の線路を使ってこのタンコロ君108号の運転をさせてあげたのです(1998/11/11)。もちろん「新田朋宏に運転士を命ずる」と記された江ノ電の立派な辞令が発行されたそうです。残念ながら彼はこの運転体験の3日後にあちらの世界に旅立って行きました。きっと彼の手には108号タンコロ君のマスターコントローラーが握られていたことでしょう、そして出発信号機を指差喚呼し「出発進行」! この実話は2005/8/27にドラマ化されて「小さな運転士 最後の夢」というタイトルで放送され驚異的な視聴率(26.6%)を得たそうです。

この写真は極楽寺に有った検車区の全景です。まだ沿線人口が少なく在籍している電車もゆったりと収容されていました。周囲を囲む山の深緑の木々、木造の建物などが懐かしさを誘います。トロリーポール用のシンプルな直接吊架式の架線に注目してください。江ノ電がパンタグラフ化されたのはずっと後のことです。

(脚注) アメリカのアリゾナ州で1980年ごろ白血病と闘っていたクリスという7歳の少年が、「白バイ警官になりたい」という望みを持っていました。それ知った警察官たちが制服装備一式を彼に準備して名誉警察官に任命したそうです。贈られたミニバイクで実際にパトロールをやりました。その夢がかなった日から数日で彼は亡くなりましたが、警察署は殉職警官と同じの栄誉礼で彼を見送りました。この模様が全米のテレビで放映されことで反響を呼び、彼の両親と警察により「メイク・ア・ウィッシュ基金」が設立されました。全米の殆どの州に支部を持ち、日本にも支部があります。この団体の名前は「願い事をする」という意味で、数多くの子どもたちの願いをかなえてきました。病気と闘う力や希望を、夢を実現させようとして本人が努力することによって勝ち取ってほしい、そのための支援をやりましょうというのがこの団体の趣旨です。

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