古い車輌の写真

国鉄救援車 6 貨車

エ603

RJ221 Web#=898 掲載2014/2/10

写真1はエ500形エ603、1966/5/28年頃 国鉄吹田第一機関区。車体の表記は「大」(=大阪鉄道管理局)、吹田第一機関区、吹田(操)駅常備。

1953年の称号規程改正の際に事業用となっていた128輌を救援車エ500形エ500〜627に改番。
1973年に形式消滅しました。

ワム6095

写真2はワム3500形ワム6095、1963/3/30 国鉄浜川崎機関区。車体の表記は「東」(=東京鉄道管理局)、浜川崎機関区救援車代用、浜川崎駅常備。

1917〜1925年に鉄道院と鉄道省が11,873両を製造した15トン積み二軸有蓋車、就役当初はワム32000形。
1928年車両称号規程改正によりワム3500形に改称。
1937〜1940年に長軸であることから陸軍の要請で約2,500両が標準軌に改軌され中国に送られました。
1965年から廃車が始まり、1968年のダイヤ改正で北海道へ閉じ込められ黄帯を巻いてロ車として運用されました。

ワキ701

写真3はワキ700形ワキ701、1966/5/28 国鉄吹田第一機関区。車体の表記は「大」(=大阪鉄道管理局)、吹田第一機関区救援車代用、吹田(操)駅常備。

1943年に日本海軍は工廠から基地へ航空魚雷や航空爆弾を輸送する為に私有の30トン積2軸ボギー有蓋車ワキ700形を30輌製造しました。製造はワキ700〜714が鉄道省大宮工機部、ワキ715〜729が大井工機部でした。写真5のワキ729で見られるように、なぜか高速運転(85km/h)が可能なTR-24形鋳鋼製台車を装備していました。
積荷の九一式航空魚雷は全長5.5m、重量1tもある重量物で、荷役の為に幅3.5mの外吊式両引戸とホイストが設けられていました。所有者名(大日本帝国海軍)の車体標記は防諜のため省略でした。
1944年には、特攻兵器である人間魚雷「回天」の為に6輌が屋根に搬入口を開けるという改造を受けたようです。戦争中に4輌が失われています。
1945年の敗戦に伴い大蔵省に移管、高速台車を活かして荷物車代用(一部に車内照明と貫通扉が設置されました)として活躍しました。2輌は連合軍専用客車として接収され衛生車NILESと酒保車LITTLE FALLSとなり、明るい茶色の車体に白帯を巻いて連合軍専用列車で運用されました。

ワキ702

写真4はワキ700形ワキ702、1969/9/20 国鉄若松機関区。車体の表記は若松機関区、吹救援車代用となっていましたが九州鉄道管理局の表示は有りませんでした。

1952年に配給車代用として使用されていた無蓋貨車トキ10形を配給電車クヤ7形(後のクヤ9210形→クル9210形)に改造する為に、トキ10形の低速アーチバー型台車TR-20(65km/h)とワキ700形TR-24を5輌分交換することになりました。写真3と4の台車はこれに該当します。
1958年に国鉄所管となりました。

ワキ729

写真5はワキ700形ワキ729、1969/10月 国鉄神戸港貨物駅。車体の表記は「大」(=大阪鉄道管理局)、神戸港貨車区救援車代用、神戸港駅常備。

長い車体による収容力と内蔵ホイストを活かして救援車代用となるものが多かったようです。このようにワキ700形は波乱万丈の生涯を送りました。
1977年に形式消滅しております。

島原鉄道 ワ83

写真6はワ80形ワ83、島原鉄道南島原機関区。

私鉄の救援車は写真6のように、古い有蓋車(背がとても低い)を流用したものばかりでした。扉に書かれている+のマークはこの貨車がブレーキシリンダを装備していないことを、番号の下に2本線が記されていないのは社線内専用であることを表示しています。とてもでかい楷書体の「救援車」の表記が目立ちます。

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