古い車輌の写真

能勢電鉄 18 40?の廃車体

40 ?

RP624 Web#=953 掲載2015/5/22

写真1と2は能勢電鉄絹延橋車庫で入口から遠い方の廃車体、1960年代、写真3は1965/4/1、写真4と5は1966/1/25 絹延橋車庫。

写真1と2は私が中学生だった頃、1960年代に買ってもらったばかりのハーフサイズ・カメラのオリンパス・ペンSで撮影したものです。この頃は屋根全体がトタン板で覆われる前で、ダブルルーフにベンチレーターが4個取付られているのが良くわかります。

写真2は絹延橋駅のプラットホームから車庫を望んだところで、私は身近に素敵な鄙びたローカル電鉄を発見して大層喜んでいました。中央に見える灰色に塗装された廃車体は、入換作業中の電車に遮られて良い写真がなかなか撮れませんでした。

阪急の37形で後の能勢電気軌道70形と40形の車体は全く同じ設計で同じ寸法でした。70形は残されている写真によればベンチレーターが両端に2個だけしか設置されていませんが、40形は等間隔に4個設けられていました。

前のページで述べたとおり、絹延橋車庫に置かれていた旅客電車の廃車体2輌分の内、入口から遠い方の廃車体は40形40のものと思われます。

1923年に阪神急行電鉄( 後の阪急電鉄 )は藤永田造船所で西宝線( 後の今津線 )用として小型の木造電車40型40〜43と45の5輌を新製しました。44は縁起担ぎの欠番です。
1931年に42が阪急箕面線で消防自動車と衝突して廃車。

1948年に初代43が能勢電気軌道線内で103と衝突大破、車籍を残したまま解体。
1954年に40と41が能勢電鉄に譲渡、台車と機器を流用して鋼体化され60形60と61となりました。
1954年ごろに鋼体化工事で残った41の車体と、阪急の貨物電車206の電装品、初代43の車籍を組み合わせて2代目43が組み立てられました。
1962年最後まで残った2代目43と45が阪急へ返還されただちに廃車となりました。2代目43は阪急の池田車庫へ、45は西宮車庫へ返還され、しばらくは倉庫として使われていましたが後に解体されています。

したがって最後がわかっていない40形の木造車体は60に車体更新された際の抜け殻の40だけで、このページの写真の写真と思われます。

写真4と5は先に解体された廃車体40の残骸です。小型木造電車の主台枠なんて華奢なものなのだと驚きました。車体の破片は車庫の敷地内で灰と煙になったのでしょうか。